最新情報

溺を救うもの

2015年11月11日
カテゴリー: 近藤美佐子先生の記事

近藤美佐子会長 平成23年度愛媛県師友会ひの会総会での講話

                         平成23年5月5日(木)

 

ちょうど東北の方で大変な災害が起こりました。おそらく日本の国始まって以来、1000年に一度の大災害だとも言われています。本当に心が痛みます。そのような大災害を、私たちはこの平成の時代に体験いたしました。

その中で溺という言葉を使っていいかどうかわからないのですが、東北の大津波が家も人も生き物もすべてさらって海の底へ沈めてしまった。あのものすごい自然の力をこの平成の時代に私たちが体験したことで、私たちは何かを学んでいかなければならない気がするわけであります。

平成の時代も23年になりました。昭和20年に戦争が終わって、40数年間の昭和の時代、そして平成の時代、この長い年月の間、私たちはずっと平和な時代でありました。東京都知事がこれは日本の天罰だと、ここでしっかりと立ち上がらねばならん、なぜこんなになったかということを知るべきだと言いました。新聞で大いに叩かれましたが、しかしこの長い平穏な時代を生きて有難いと思う一面、何か大切なものを忘れながら日本人は来ているんじゃないか、という気がするのであります。

私たちは、この非情な災害の中で苦しんでいる方々が一日も早く立ち直っていただきたいと願うと共に、東北の人たちの苦しみと、いろんなものを一瞬に失うという恐ろしさ、大自然の脅威を体験なさった方々の恐怖の世界を、遠くから眺めている。私たちは本当にこれでいいんだろうか。

私たちが非常に苦しみ、非常に努力をし、一生懸命になった第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)、あの戦争に戦った時代を近頃よく思い出します。あの戦いが終わった後の60年間、我々は非常に平和な時代を享受してきました。それで日本人全部が鈍っているんじゃないかというので、東京都知事があのような言葉を発したのではないかと思うのであります。

私は近ごろ、世代の違いでこれほどものの考え方が違ってくるのかなあと、つくづく感じています。20年違うと世界観や人生観が非常に違ってきていると感じています。私は今年で90歳になりました。90代と70代ではもう違います。50代では同じ日本人だろうかというほど違います。世の中の教育、社会から受ける刺激や教え、いろいろな出来事がその人の考え方を変えていくわけですから、我々の時代と20年30年たった人たちの考え方とはかなり違うことを、いろんなところで感じるわけです。皆さん方もご家族の中で、あるいは周りの人たちの中で、自分の考えとその人たちの考えが違うなあと、若い人は若い人なりに、お年を召した人はお年を召した人なりに、その落差、違いの差のはっきりしていることや深いことに驚くことがあると思います。

ひとつに違うのは国に対する考え方、これが非常に違うんじゃないかと思います。日本の場合は、その中心である天皇陛下に対する考え方が非常に違うんじゃないかと思います。人間性に基づくものはあまり変わらないのですが、それでも親に対する考え方、兄弟間のものの考え方、そういった人間関係の中における人と人との関係についての考え方も非常に変わってきていると思います。

日本は特に敗戦を経験したので、そのショックを受けた方とそれを全然知らない方との間では、ものの考え方が違う。そういうことで日本の国を支えている国民の心の傾向というものが何層にも縞のようになって積み重なっている。これは自然なのかもしれませんが、国が一つになって頑張るとき、私たちの世代は本当に日本の国を愛し、日本の国のためなら命もいらないという気持ちで頑張ろうという気持ちがあります。それが今はもう薄れてきているような気がします。

今日私は皆さん方に、こういう面からこういう考え方があると、お話ししたいと思います。私はこれは非常に素晴らしい考え方だと思います。

師友会という会は、竹葉先生が全国師友会の安岡正篤先生のもとで教えを受けて、愛媛県師友会という会の名前をつけたわけですが、竹葉先生はそれにとどまらず愛媛県師友会ひの会という名前を2つ連ねました。愛媛県の集まりはひの会だ、「ひ」という言葉を大切にせよと言われた。この考え方が会の中心なんだと言われた。今日はそれについて申し上げます。

では、ひの会の「ひ」とはどういうことかと申しますと、先生のお書きになったものがありましたので、プリントしてまいりました。

 

「ひ」は、「光」であり、「日」であり、「陽」である。太陽である。太陽は太初であり、根元である。「ひ」は毎日東から昇るお日さまであり、太陽である。ひの会は太陽の会だと考えていただきたいと思います。太初とは宇宙の始まりです。宇宙の始まる前を太初と言います。一番の根元の所です。太陽は始まりであり、根元である。

夜はこゝに明け、闇はこゝに消え、自分の生命はこゝに生まれる。萬物は、この光に生き、この熱に育ち、この愛に性を遂げる。詩のような文章ですね。この性は「忄」がついています。動物のように生きるだけなら「生」でいいのですが、「忄」がついているから心がある、精神がある。生きるのは肉体だけじゃなくて心なんだぞというのが、人間の生き方を表す「性」です。本当の生き方ができる。

わが国は、名は「日の本」であり、国旗は「日の丸」であり、大御祖を「日の神天照皇大神」と仰ぐ。国の最もの始まりのご祖先の神様はだれか、仰ぎ見る日の神天照皇大神である。

「ひ」は、また「日々」でる。人生である。「日に新に、日々に新に、又日に新なる」生々発展である。これは大学の言葉ですね。毎日毎日新しく、また新しく、「ひ」というのは毎日毎日新しく生み出されていく日々ですね。その「ひ」が日々だ、人生だ。

一日の行持を行取せねばならない。一日一日の行いをしっかりと行う。一日一日を真剣に生きる。先生はよく言われた。たとえば下駄を履くときにはしっかりと履け。敷居を上がるときはしっかりと上れ。一つ一つのことを心を込めてしっかりとやれ。生きるというのはそういうことなんだと。難しい勉強なぞしなくていいから、一つ一つのことに心を込めよと。こういうことを言われました。それなんです。

「その一日」をおいて、「人生」はなく、「永遠」はないのである。その一日を別にして人生はない。今生きているこの一日一日が人生であって、遠いところにあるのではない。毎日毎日が人生なんだ。それなくして永遠などはないんだ。それが永遠なんだ。

だから、「一日の行持を行取せよ」というのは非常に大切な言葉です。毎日のご飯を炊いたり食べたり廊下を拭いたり掃除をしたり、その毎日の行いにしっかり心を込めよ、ということです。

「ひ」は、また「霊」である。明徳である。「性命」である。人間の心の中にある霊であります。それは「大学」の言葉で言えば明徳(明らかなる徳)であります。明徳というのは後から身につけた徳ではなく、生まれながらに持っている徳であります。人間にはそれぞれに皆、明らかなる徳をもっている。明徳を明らかにするという言葉があります。明徳だからもう明らかにする必要がないという考え方もありますが、明徳だからこそ明らかにせよ。みんな持って生まれているそれを、本当に輝かせよ。この「性命」も単なる動物が生きるのではなく、人間が心を持って生きる性命なんですね。

人(日止、日迹)彦(日子、比古、昆古)姫(日女、比売、昆売)は日の霊、日の性命、明徳を享けた男であり、女である。われわれは、悪魔の子でもなく、罪を背負った悪行の子でもない。「ひ」は「ひこ」「ひめ」です。日本では男の人は「ひこ」といいます。漢字は日子、比古、昆古と、古事記などでは当てはめています。女の人は「ひめ」日女、比売、昆売といいます。男女ともに日の霊を持っている。我々はもともと素晴らしいものなんだ。

光りと愛と正と直との清浄なる神の子である。そのわれわれの「ひ」の道を継ぐ根元の象徴を「日継の皇子」と謂い、そのわれわれ神の子の象徴の天皇を、現津神として仰ぐのである。「ひ」の道というのは光の道のことです。「ひ」を継いでいく皇子が国の中心においでになる。「ひ」という言葉を先生がいろいろと説明しておられます。

「祓ひ」は「張る霊」であり、「禊ぎ」は「霊注ぐ」である。「はらい」というのはお金を払う、ごみを掃うとか考えがちですが、本当は霊を身体中に張る、いっぱいにするということです。つまり払いのけるのではなく、自分の中に生き生きとした霊を満たすということです。

禊というのは水の中に入って体や心を洗う。禊でいろいろな穢れを除けるといいます。もちろんそれもありますが、それによって霊を注ぎ入れる「霊注ぐ」。自分の中に光・霊を注ぎ入れる。そして身体を霊ではち切れんばかりにいっぱいにする。そういうことです。

宇宙の大霊、太陽の性命を、わが身に注ぎ入れることであり、霊、性命の充実である。朝、太陽を身体に注ぎ入れます。黒住教の教主が朝起きてお陽さまを飲むんだと言っていますが、それがこれだろうと思います。

枉事(曲がったこと)罪(積、鬱積)穢(気枯れ)病(やむ気、休み、息む、死す霊)悪(割れる霊)は、そこに自づから清められ、甦り来るのである。反対に、罪というのは、ものが積み重なることを罪と言います。鬱積するわけです。穢れというのは気が枯れることです。気が枯れると生々の気が無くなって折れやすくなる。病というのは気を止むこと。休むは止む。何もしたくない。休む。息をしなくなる。霊が死んでしまうことを病と言います。そこから自分自身で清め甦ることが大切ですね。

「ひ」は、また「火」である。人類は火を得たことによって文明を創造した。「ひ」はまた轟々と燃え盛る火です。火を扱うのは人類だけですね。人類は火を得たことによって文明を創造した。この通りです。

原水爆のおそろしさは火のおそろしさである。神から火を得た人類は、火を神のものとし、火を治めねばならぬ。しかしその火は極めて危険なものだ。神から火を奪った人類は、火を大切な神のものと考えて、火を治めていかなければならない。火は非常に恐ろしいものであるから、大切に扱わなければならない。

火はまた穢れを焼く「浄火」である。そしてまた「理想の火」を掲げ、「燃える生命」であり、「感激に導く人生」である。「ひ」は、また「星」であり、「燈」であり、「灯」である。夜空に瞬く星であり、闇燈であり、心に点ずる灯である。人の心を慰め息づかせ、救われる思いがする「ひ」ですね。夜空に瞬く星であり、闇夜に導く燈であり、心に点ずる灯である。

我々は一隅を照らす一燈行の行者を期している。「ひ」を掲げよ。一灯を掲げよ。どんなところでも、どんな時にも灯を掲げよ。

人間性喪失の此時代の中に、己の性命の灯を護り、他の性命にも灯を点じてゆく、人類の希望の星である。「灯」というのは移るんです。こちらの灯を次の人に灯を移すことが出来る。青少年がキャンプファイアーやキャンドルサービスでよくしますね。灯を次から次へ移してゆく。灯を点じてゆくように、我々も日々の生活の中で人の心に灯を点じてゆく。その灯をつける。それは人に希望を与えることです。その灯こそ人類の希望の星だという。

「ひ」は、また「費にして隠」の「費」である。壮大絢爛たる宇宙の相である。「費にして隠なり」というのは中庸の言葉です。「費」とは潰え、あらゆるものに転じていく、輝かせる、いろんな花が咲く、というようにいろんなことができる。壮大絢爛たる宇宙の相、これが「費」なんです。

日月辰星かゝり、山野河海横たはり、草木鳥獣魚介生じ、風雨霜雪、雲霧雷電いたり、そして今、この地上に、人類の大文化燦然と輝く荘厳なる費の姿である。大空に日が輝き、月も輝き、星も輝く。野には花が咲き、山には木が茂り、海や川には豊かな水が波打ち、それらがキラキラと太陽の光を受けて輝いている。これがすべて「費」であります。そこには草木鳥獣魚貝すべての生きものが生々と生きている。これ皆「費」であります。そこへ風が吹き、雨が降り、霜が降り、雷が鳴り轟く。これも「費」であります。すべてが素晴らしい生々の姿。雲が流れ、霧がまき、稲光が輝く。これも「費」です。すべての大活動、大表現です。そして人間を見た場合、それぞれに力を尽くして素晴らしい文化を築く。これも「費」であります。誠に荘厳な「費」の姿。「費」は消費の「費」ですが、表現し、そこへ自分のすべてを投入して輝く。これが「費」なんです。「費」という言葉の意味が、ここに様々な形で書いてあります。

我々は、ますますその性を尽して、天命を遂げ、各個人と各民族の文化の華の咲き匂う大和世界、萬物の性を遂げしめて、天地の化育を賛け、天地と参る生々として、華厳なる中和の世界の顕現を期するものである。

私たちは人間性という性を持っています。動物とは違います。人間の持っている性・本質を徹底的に開発して表す。「天の命ずる、これ性という」という言葉がありますが、天の大きな運命によって、我々はそれぞれ人間性を持った人間として生まれてきている。だからその天命を完全に発揮しなければいけない。

一人一人がその個性、持っている本質を完全に発揮せよ。一人一人に素晴らしい個性があるわけです。また、民族は民族でそれぞれの文化の民族性を持っている。その光輝く性が調和して全体が輝いている。それを大和世界という。そういう世界を目指していこうというわけです。

自分の性を発揮することによって、まわりを輝かせるようにしなければいけません。それをするのが天の仕事、地の仕事であります。天地は我々をそのように育てていく。そのように我々を守っており、我々の性を発揮させるようにしてくれています。それをさらに助けて、天地と交わる華やかで美しい中和の世界の顕現を期するものであります。

私たちはここに「ひ」というのは何か。「ひ」の意味を身に染みて知りたい。「ひ」を知って、「ひ」を行ずるものとなりたい。そして「ひ」の運動を展開していきたい。

愛媛県師友会ひの会とは何かといったら、これを願っている会であります。大変難しい文章ではありますけれども、直観されるところを行じていっていただきたいと思います。

 

東の空白みたり

2015年11月11日
カテゴリー: 近藤美佐子先生の記事

 日本は目下睡眠中である。

 しかし、耳を澄ませば、夜明けの鐘が、曉闇を衝いてかすかに鳴り始めているのを聞くことができる。

 開国百年、日本に往来する外国人も、この頃漸く多くなった。

 松山に在住するアメリカ人宣教師のフランシス女史は、日本に来て50年になる。もう80才を越えたこの柔和な老婦人は、日本に来た当初の頃を回想しながらこう語った。

 「私が松山に来ました頃は、西洋人はとても珍しかったようデスネ。みんなが、しげしげと私を見守りました。行く先々で人垣ができたものです。そして、或る時、一人の男の人が云いました。“あゝやっとホンモノを見たゾ”と………」

 その当時は、異人さんに御目にかかるのは、せいぜい絵か写真くらいのもので、ホンモノに遭遇することはマレであったのだろう。それが僅か50年前である。またその後、十年近くの間は、戦争が西洋人の往来をストップさせた。日本人がホンモノの西洋人にかなり頻繁にお目にかかれるようになったのは、つい此の頃のことである。

 来日した西洋人は、日本人のすることなすことを、いちいち不思議がる。また、日本が戦火の灰燼の中からかくも逞しく立ち上ったのは何故だろう?とか、能や生け花に関心を示して、我も我もと、鑑賞したり習いたがったりする。このような状況の中で、日本人は、自己についての説明に迫られて来始めたのである。日本に潜在しているもの、それは日本人同士であれば極めて納得し易い、つまり直観的なものを、西洋人にも解るように客観的に理屈立てて説明しなければならなくなった。このような質問や説明は、街頭での極くありふれた観光客とガイドの会話の中にもしばしば交わされるのである。

 西洋人は、かつての支那人や印度人のように自己充足的ではない。日本人ほど旺勢ではないにしても、西洋人の、他から学び取ろうとする気構えは相当なものである。アメリカの婦人は猫も杓子もイケバナを習おうとし、茶をたて、庭を研究し源氏物語を読もうとする。これをただ東洋の涯の国の、異国情緒に対する物珍らしさとだけ云って片づけてはならない。彼等は自分たちの好奇心と探索の努力に応え得るだけの価値あるものが、日本にあるに違いないと、ひそかに感じ取っているのである。地球は狭くなった。フシギの国ニッポンへ鋭く投げかける青い眼は急速に増えてくることであろう。

 日本を説明するに当たって、その本質的なものは神道をおいて他に無い。日本人は今こそ自覚的に神道を理解しなければならない。日本人がそうすればするほど、西洋人は日本を理解する。西洋が日本に対して無知なのは遺憾である。しかし、日本もまた自覚的には自己に対して無知である。

 日本が眠りより醒めて自覚的に日本本来のものを掴むことは、度々述べたように決して偏狭な排他主義になることを意味するのでなく、個人がその個性を伸ばすことが大切だからである。個はその個性に徹して始めて普遍となる。

 この頃、妙に日本染みた外国人を「ヘンな外人」と呼ぶ。日本人も妙にアメリカナイズされたり、イギリスがかっては、向こうの人に云わせれば、やはり「ヘンな外人」であろう。ヘンな外人同士では決して国際理解など深められるものではない。

 

 目覚めの鐘はまた、今の切羽詰まった世界の険悪な諸相を直視するうちに、日本人の心中に次第に力強く鳴りひびいて来つつあるのである。

 地球上は、自由、共産の二大陣営に分かれ、その争いは日毎に激しくなり、このままでは人類は憎しみと斗争の中に滅びてしまうのではないかと不安である。そこで日本人は、フト首をかしげるのである。西洋の自由主義、共産主義の驥尾に付して斗うのではなく、もう一つ全く別な道が、活路があるのではないかという気がするのである。精神の裏づけのない科学は、強力な核兵器、宇宙兵器を生み出し、人類は科学によって生命を絶たれるかもしれない。こういう不安は日本人だけでなく、当の西洋人も含めて全人類の、近代文明に対する疑惑である。それであるだけに、明治以降、夢中になって西洋文明を取り入れてきた日本人は、フト立ち止って、このへんで一つ考えてみようという気になって来るのである。夢から醒める思いがし始め、これが、このごろの西洋文明に対する反省という言葉になって使われ始めているのであろう。ここにも自覚の鐘が、かすかに鳴り始めているのである。

 物を中心とした争いの世界、非情な自我の斗争の世界を、愛と光りに満ちたものとするために、また凡ての人類が神の子であり、光の子としてその個性を発揮し、個々が調和して生々発展する大和の世界を実現するために、今こそ、日本本来の道を世界に明らかにしなければならないときである。

今こそ、過去数十世紀にわたって日本の中に潜在してきた日本本来の面目を明らかにしなければならないときである。

「菊と刀」の著者ベネデクト女史は、アメリカの地にあって日本を探るという困難な条件の中で、よほど日本の本体近くまで迫った西洋人の一人であろう。それでも肝腎の本体までは遂に手が届かなかった。それは、彼女が神道に対する洞察を缼いていたからに他ならない。よっぽど迫っても、あと十センチメートルのまわりをグルグル廻っているだけという結果に終わった。

 この僅かな、しかも越え難い間隙を超えたところに「日本」がある。しかし西洋人にとって、この間隙を超えることは、窮屈な自我の壁を打ち破って大転換をすることで、まさに百尽竿頭一歩を進めて真逆さまに飛び下りるほどの覚悟が必要である。

 ここを越えると、全く新しい世界が開けてくる。人間は罪の子でなくなり、光り輝く神の子となる。天皇と国体が、宇宙を貫く生命の開花として摑めてくる。分を尽し合って万物が生々する地上の有難さが身に沁み、処を得ることの真の意義が解って来て、処を得て居ないもののために百臂の労を惜しまず努力したくなってくる。恩愛の情の深さ、義の道に生きる本旨が、その他モロモロが、実に明瞭に理解されてくる。僅か十センチメートルが、実は太平洋よりも広く深い間隙なのである。

 女史も、遂に外から日本を撫でまわすだけに終った。それでも、終戦の詔勅を天皇陛下が放送されることを知った朝、日本の国の美しさと気高さに涙を流して感動したと伝えられている。西洋人の自覚的知識を以てしては納得できなかった日本を、女史の潜在的直観がフト感じ取ったものであろう。

 問題は埋められねばならない。西洋の西の端にあるアメリカと極東に位置する日本との間に広がる太平洋は、そのまま東西の間隙を象徴している。ここに橋をかけよう。世界を一つにするこの作業は、私共日本人がしなければならない仕事である。即ち、西洋近代文明を取り入れて成長しつつある日本人であって始めて、東洋の中で最も純粋に東洋的本質を湛えた日本の心を、西洋へ伝えることができる筈だからである。それは、西洋にとって全く未知の分野であり、それを知らせることによって、日本は単なる橋渡し以上の大きな貢献を世界に対してすることができるのである。

 

日本の児等に               ポール・リシヤール

曙の児等!海原の児等!

花と焔の国、力と美との国の児等!!

聴け、涯しなき海の諸々の波が

日出ずる国の島々を讃うる栄誉の歌を

汝の国に七つの栄誉あり

故にまた七つの大業あり

さらば聴け、その七つの栄誉と七つの使命とを

      一

独り自由を失わざりしアジア唯一の民!

汝こそ自由をアジアに与うべきものなれ

      二

かつて他国に隷属せざりし世界唯一の民!

いっさいの世界の隷属の民のために起つは汝の任なり

      三

かって滅びざりし唯一の民!

いっさいの人類幸福の敵を亡ぼすは汝の使命なり

      四

新しき科学と旧き智慧と、ヨーロッパの思想とアジアの精神とを自己の裏(うち)に統一せる唯一の民!

これら二つの世界、来るべき世のこれら両部を統合するは汝の任なり

      五

流血の跡なき宗教を有てる唯一の民!

いっさいの神々を統一してさらに神聖なる真理を発揮するは汝なるべし

      六

建国以来一系の天皇、永遠にわたる一人の天皇を奉戴せる唯一の民!

汝は地上の万国に向かって、人は皆天子の子にして、天を永遠の君主とする一個の帝国を建設すべきことを教えんがために生まれたり

      七

万国に優れて統一ある民!

汝は来たるべきいっさいの統一に貢献せんために生まれまた汝は戦士なれば、人類の平和を促がさんために生まれたり

曙の児等!海原の児等!

かくの如きは花と焔との国なる汝の七つの栄誉・七つの大業なり

 

 黎明

 私は、やっと薄らと眼を開き、あたりの美しい光景に驚いて、しやにむにこの一文を書いた。まだ少々寝保けているところもあるので、充分な説明にならなかったところが多い。

 もう既に、ちゃんと目をさましまして、確かな口調で、眠っている人々を呼び醒そうと叫んでいられる方もあろう。私のこの拙い一文がそのための僅かなお役に立てば幸せである。

 世界に暁を告げる鐘が、日本の国から韻々と鳴りひびく日がやって来る。いま既に、日本の各地で、そのかすかな響きが暁闇の大気を震わし始めているのだから……。                       

                             終         

対面      「日本との対面」より           

       近藤美佐子著